抹茶耕太 短編小説
病室の窓のすぐ外には庭園が明るみの中に広がり、蔓をまとった藤棚や樹形の整った小さな木々、緑豊かな芝が続いている。四季咲きの薔薇がところどころに植えられ、それぞれの異なった品種が全体の風景の中で調和よく咲き乱れている。
よくこの庭園を散歩したものだった。
朝露の残るひんやりとした花々に手を触れ、茎がからみついたオベリスクの合間を、自分の足で歩きまわるのが何よりの楽しみだった。短く刈られたやわらかい芝の上を、時には素足になって踏み歩いたものだ。かつてここを過ごした時間の片々を拾い上げて取り戻すように、一歩一歩を踏みしめながら。見覚えのある土の窪みや、木の幹にあいた昆虫の巣に指を触れ、樹液が鼻の先に届くくらい顔を近づけると、流れ出たばかりの樹液は甘酸っぱい香りがして、頭がくらくらとした。
庭園の向こうは、はるかな水平線へと一面の海原が広がっている。
灰色の、のどかな波が静かにたゆたう海だった。
小さな漁船が沖を横切る時などは、いつまでも航跡が大きな一の文字を描きながら、ひこうき雲のように漂い続けた。大きな一の字は端から傘のように少しずつ広がって、やがて波の一部となり、しだいにその姿を消していく。
この庭園を半生にわたり守り続けた庭師は、陽に灼けた顔でいつも懐かしそうにこう言った。
「かつて旅した国に、千年前に建てられた古城がありましてね。海辺にある、いまにも崩れそうな城壁がいつも霧に包まれていて……そこから眺める海にそっくりなのです。涼しくて、少し曇った時は、波のぐあいがまったく同じでね」
白髪を風になびかせた庭師の残像が、少しずつ近づいてきて微笑みかけてくる。
「それで」
とわたしは声を張る。
「その話はいったいどこの国の話なの」
庭師は立ち止まった。
わたしが手を伸ばし、ようやく指先がうす汚れた上着に届こうとすると、残像は微笑んだまま、しだいに消えてなくなる。
テイカカズラの緑のアーチを、見慣れない一台の青い車がゆっくりとくぐって来た。
真新しくて傷一つない車体の上を、すべり落ちるように光が輝き、すぐに消えたのが薄紗を通して見えた。わたしは心待ちにしていたその車を遠目で追いながら窓際に寄った。車から人影が降りたのが見えた瞬間、興奮のあまり胸の痛みで倒れるのではないかと心配したほどだ。部屋を出てロビーへ向かった。出た瞬間、鏡で髪型を確認するのを忘れたのを思い出して後悔した。今日のためにわざわざ美容師を呼んで、十年ぶりに髪をきれいになでつけてもらったのに。
玄関口からヴァイオリンケースを肩にかけた小百合が、花束を抱えて小走りにかけよってきた。それから挨拶をする間もなく、腕をまわして抱きついてきた。
「マリおばさん、お久しぶりね!お元気そうで安心したわ」
車椅子に座ったわたしの高さに合わせたために、ヴァイオリンケースが床に触れて硬い音をたてる。
「まあ、すっかり美しくなって。ずっと会いたかったわ、本当に」
力の限り小百合の手をにぎり、手紙の文面通りの自信に満ちた笑顔をまじまじと見た。
これが、あの病弱でやせ細っていた小百合なのかしら?
晴れやかな口を結び、ふっくらとした頬で満面の笑みを浮かべる姿はまるで別人のようだった。しばらく言葉が出ないまま、小百合と目を合わせているとさまざまな光景がよみがえってくる。
いつも無表情で空を見ている、肩を落とした小さな子供の横顔を。
「ニューヨークの生活はどうなの?」
「うん、練習は厳しいけど、毎日充実してる。わたしね、あれから毎晩寝る前にここの生活のことを想い出しているのよ。一日も忘れたことがないの。おだやかな海の色、やさしい人たち、心が落ち着く庭園、そしておいしい紅茶もね」
目にするものが懐かしくてたまらない、というように小百合は一つ一つ確かめながらまわりを見回した。
珍しい訪問者の声を聞きつけて小百合のもとに集まったサナトリウムの古い住人たちは、皆二つの目を輝かせて、肌つやのよい健康的な小百合に驚きの声をあげた。誰の目にもあきらかなほど、小百合は変わったのだ。ジーンズ姿の小百合は、うれし涙を浮かべながら、一人一人と握手して言った。
「みんな、変わらないのね。ほんとうに会いたかった。今日はわたしなりのお礼を言いに来たのよ」
庭師の十年目の命日に、庭園で演奏会をやろうと手紙を送ってくれたのは、庭師の孫の小百合だった。お世話になった海辺のサナトリウムの住人たちに自分の演奏を聴いてほしい。ようやくヴァイオリニストとして自信をもてるようになったから、祖父にも報告しに行きたい。二十歳の演奏家は誇らしげに手紙の中で語るのだった。
小百合はみんなの輪の中にすっと立って、丁寧に深く頭を下げた。
「わたし、夕方から庭園でヴァイオリンを演奏します。今日がみんなにとって忘れられない日になることを願って。わたしの大切な人たちが、いつか今日を振り返って、その度に感動してもらえるような演奏をしたいと心に決めてきたんです」
薔薇の花弁をブレンドした『うつくしい友達』という名の紅茶を淹れると、すぐに薔薇の香りが漂い始めた。小百合がとても気に入っている、と手土産にもってきてくれた紅茶だ。
昼食の済んだ閑散としたサナトリウムの食堂で、わたしと小百合は庭園を眺めた。
住人たちは昼寝の時間で一人残らず寝入ってしまい、建物は休館中の美術館のように静まりかえっていた。
数匹のシジュウカラが鳴いている。
「あの人とよくここで紅茶を飲んだのよ。小百合はまだ小さかったけれど覚えてる?」
わたしは言った。
小百合はまだ興奮がおさまらない様子で、テーブルの小さな傷を何度も確かめて指でなぞっていた。
「うん、もちろん。ここは何一つ変わっていないのね。時間のながれがゆっくりしていて。あの並木道をとおって海へ散歩に連れていってくれたのをいつも思い出すの。三人でただ毎日風に吹かれて。その時間が一番好きだった」
「ほんとね、不思議な三人」
わたしは笑い、寡黙だった庭師の後ろ姿を、灰色の海の中に見ていた。しばらく談笑したあと、起き出した住民に呼ばれて小百合は席を立った。 小百合を一人占めすることを誰も許してはくれないのだ。
その頃、学校へ行かなくなって半年が経った小百合は、覇気を失った目で毎日ぼんやりと過ごしていた。何をするにもおっくうな仕草で、顔色は血が通っていないように青くなり、小さな体は何もしないことに疲れ続けているようだった。小百合は生きる希望を失っていた。両親を失ったショックから、まだ立ち直ることができないでいたのだ。人がなぜ、突然目の前から消えていなくなってしまうのか、その不思議さの前で呆然と立ちすくんでいた。
そんな小百合とは対照的に、わたしは熱に浮かされたように興奮して、小さな少女に生きることの素晴らしさを毎日のように話して聞かせた。生きて、新緑の草花が吐く息を間近に感じることの感動や、二度と繰り返されることのない夕空のグラデーションの美しさ。人と人が出会い、お互いが少しずつ変わっていくことの美しさを話した。
心からわたしはそう思っていたのだ。ときどき肺は痛むけれど、身体のどこかが痛みを発するたびに、精神がつめたく冴えわたる。そしてますます生きる希望が四肢へ満ちていく。
生きたいと強烈に願う。
ほんとうは、わたしは庭師に恋をしていたのだった。
それを言い出すには、あまりにもお互い年齢をとりすぎていたし、いつどちらかが病にのみ込まれてしまうか分からなかった。だからじっと黙っていた。残されたほうがより多くの年月を悲しまなければならなくなるのだ。そんな孤独な日々を相手に負わせるかもしれないと思うと、自分の感情の昂ぶりが我が儘のように思えてきて、気持ちを押し込め、誰にも言えずにただ紅茶を見つめるしかなかった。それがわたしなりの、精一杯の愛情のかたちだった。
だから最期まで一言もうち明けることはなかった。
庭師はとても頑固な人だった。
小百合が落ち込んでいたあの時も、決して厳しい態度を崩さなかった。
「世界中どこへいっても、人生が厳しい土地では、人間は毅然としたうつくしい姿をしているものだ。かつてこの国だってそうだった。お前のしていることは甘えに過ぎない恥ずかしいことだ」
庭師は一度もゆらぐことなく、そう強く言いつづけていた。
小百合がどうしても行かないと知ると、諦めたようにこう言ったのだ。
「学校へ行かないのなら庭仕事を手伝いなさい」
弱々しくうなずいた小百合はまる一年のあいだ、土を堀り、泥だらけの手で苗を植え、雑草を抜いた。最初は小さな虫を見ても泣き出してしまい、熱を出してベッドにもぐりこんでしまったのだが、すぐにベッドから引きずり下ろされ、一日でも休むことは許されなかった。サナトリウムの誰もが、両親のない小百合に同情した。そして子供を労働に使う庭師を、冷酷な心の持ち主で、よく研ぎ磨かれた花鋏を腰に下げ、土とだけ向き合う変人だと陰口をささやくのだった。
住人たちは小百合にやさしく声をかけ、髪を切ってあげたり、ケーキをごちそうしたり、古い歌を聴かせたりした。人生を嫌いにならないように、と。
小百合は、朝から日が暮れるまで庭で暮らしているうちに、しだいに陽にやけて身体に肉がつきはじめた。庭園に群生する草花の名前、そこに集まる小さな虫や鳥とも友達になり、かれらの名前もすべて庭師の口から聞いたまま覚えてしまった。驚くほどの速さで手に触れるもの、見るものを吸収していった。庭仕事は小百合を少しずつ変えていった。
小百合がもう一度学校へ行き始めた日、わたしと庭師は落ち着かずに午後中ずっと庭園の入り口で小百合の帰りを待った。サナトリウムの住人は、みな食堂から窓越しに並んで見守っていた。
夏が開花する直前の、なまあたたかい春の日だった。
わたしは朝、お守りとして庭に咲いた薔薇を一本、カバンに入れてあげた。おとなしい小百合がまたいじめられはしなかったか、老いた病人たちは揃って気をもんでいた。
波打ち際に沿ったゆるやかな坂の下から、小百合が女の子と手をつないで談笑をしながら帰ってくるのが見えた。その時、二つの心臓は大きな安堵感に満たされ、一年間の庭仕事を経験した小百合が、隣の女の子よりも明らかに背筋が伸びていて、上級生のように落ち着いた顔立ちをしているのを知った。それが誇らしかった。薔薇の刺を鼻先につけて遊ぶ妖精のような二人の姿が、雲間から洩れた光に包まれて宙に浮かびあがったように輝いていた。わたしが建物のほうを振り返って大きくうなづくと、窓に並んだ顔がいっせいにゆるんで、手をとりあって歓声をあげていた。
庭師は無言で小百合に大きな包みを渡した。小百合はおどろいた顔で膝をついて包みを開け、草の上のヴァイオリンケースをゆっくりと開けた。黄金色の留金具が、小百合の手によって解かれた時の「カチ」という音が、縞模様が広がった灰色の空に響いた。
戻ってきた小百合に声をかけた。
「もうすぐ世界的な演奏家ね」
「ううん、それは生まれた時からヴァイオリンを握る人に限られてるのよ。それにコンクールで優勝するようなミスのない演奏って、あまり好きになれないし。わたしが目指すのはね、落ち込んでいる誰かを励ますような演奏なの。あの時のわたしみたいな子がもう一度希望を取り戻せるような演奏ができたら、とても素敵だと思わない?」
「そうね」
「準備しなくちゃ。じゃまた後でね」
まるで映画女優のような笑顔を前に、わたしの心はつめたくなった。あの時の小百合。
今のわたしは、まさにあの時の小百合と同じだったから。
わたしは庭師が亡くなってから、彼の遺した整然とした庭園を眺めては涙を流し、亡霊を恋する毎日を送っている。しだいに部屋から出る気力もなくなり、全身が力を失って何日も寝たきりでいると、そのうちに自分の足では立つことができなくなってしまった。手や頬からあっという間に肉が落ちた。
肉が落ちていくたびに、彼を想う気持ちが強くなっていった。どんなに小さなことでもいい、あと一言でいいから何かを話していたかった。ただそれだけを想うだけの毎日。
食堂に並んだ白いテーブルが、息をひそめたように整然と静まりかえった。ざわつく海だけが生きた世界のようにわたしの前に広がっていた。眠れない深夜、そっとこの食堂に忍び込んで月明かりに揺れる海原を眺めることがしばしばある。きっと庭師もこんなふうに、この椅子に座ってウィスキーを片手に深夜の食堂にいたのだろうと想像しながら、じっと座っている。死を前にした人間の目には、ほんのわずかな光と陰の起伏が、かけがえのないもののように輝いて見える。
涙と後悔の入り混じった愛おしい気持ちに埋もれていると、わたしは紅茶からたちのぼる薔薇の香りの中で心地よい眠気に酔いはじめた。眠気は抗い難いほど甘美にのしかかってきて、わたしの意識はゆっくりと、麻酔を打たれた獣のように崩れ落ちていく。
それは何も特別なことのない、ある夏の午後のこと。
外の木の葉と葉がこすれあって、さやさやと波のような光と影が白い天井で踊っていた。
海は南国のように透きとおって青々と輝いていた。
何の前触れもなく、突然、わたしは少女時代に戻ったように幸せな気持ちになることがあった。夏もあと数えるほどしかやって来ないはずなのに、カーテンの陰で未来への期待に胸をふくらませる少女のような気持ちになるのだった。
胸に満ちた昂揚をもてあましたわたしは、若返ったファウストになりすまして、日傘を片手に広い庭園に出る。
そして庭仕事をしている庭師の後をついてまわるのだ。
庭をいじっている時の庭師は「土で汚れますから」と職人らしく仕事に集中して邪魔くさい顔をした。そんな扱いを受けて、ほんの少し顔をしかめるわたしの表情と、頑固に土を見つめる庭師の背中との関係が好きだった。わたしにだけ無愛想な返事をしてくれる庭師が好きだった。
掘り起こしたばかりの、ひんやりとした土の匂いが庭園に立ちこめて、潮騒が乾いた白い日傘の上をすべるように山のほうへ飛んでいく。どこかで見たような原色の空だった。
わたしは、庭師と背を向き合わせたまま遠くの沖を眺める。
「この頃は、ほんの少し日が短くなってきたようね」
ここでは太陽は海から昇らず、赤く燃え尽きながら海の中へ落ちていく。
強烈な陽光を浴びた風景が、露光時間の長い写真のように白くかすんでいる。
「ええ、毎日少しずつ」
「毎日、わかるものかしら?」
庭師もこちらに背を向けたまま声を上げる。
「こうやって庭に出ていますとね、畳の目を詰めるように、ほんの少しずつ短くなっていくのが分かります、冬至まで休みなく。それからまた少しずつ長くなっていく。われわれが生まれた時も、そしていなくなるときも変わりなく」
庭師の白髪が青い空の下で風に揺れていた。庭師の飼い猫がわたしを追い返そうと嫉妬の目で声を上げる。猫が頬を庭師の腕にこすりつけると、庭師は作業を止めて、慣れた手つきでのど元をくすぐる。猫は両目を細めて首をのばして、気持ちよさそうに一声鳴いた。猫はわたしと少しも変わらない。
わたしと長くにらめっこをした後、ぷい、と猫は海の方を向いて細い腰を高く上げ、のびをした。
「小百合はまた友達と遊びにいったわ。皆がヴァイオリンを聴きたがっているのよ」
庭師は嬉しそうな顔を隠しもせず、目を細めて何度もうなずいてから「それはよかった」と言った。
あふれる陽光に透けて消えてしまいそうな白い日傘と、陽光を吸うほど濃く輝く薔薇のなまめかしい赤が、美しいコントラストをなしていた。
「そんなに急いで植えなくてもいいんじゃないかしら。今日は暑いわ、少しは休んだら?」
わたしはおそるおそる庭師の汗ばんだ肩に手を置いてみた。
庭師が怪訝そうにすると思って身構えていると、今度はいやがらず、
「そうしましょう」と微笑みながら立ち上がって海を眺める。
「植えた草花が自分の子供のような気がして、つい時間を忘れてしまって」
庭師はわが子を失った自分自身の悲しみを決して他人には語らなかった。
誰にも弱音を吐くことがなかった。だからその時、背中ににじんでいる小さなまるい汗の形が、二つの目のかわりに流した涙のように見えたのだった。
それだけの短い会話だった。
ある夏の昼下がり。
潮の香りのする風は強く、沖のいたるところに白い波頭が立っていた。
目が覚める時、わたしはいつもむなしい想いをする。もの忘れが激しくなった眠気の残る頭で、庭師はほんとうは亡くなっていないのではないか、ただ亡くなった悪い夢を見ていたのではないかと、事の始まりから考えをめぐらすからだ。
導き出される答えはいつも決まっているはずなのに……。
目をゆっくりと開けて庭園を見ると、日が傾きはじめた庭園の中央に髪をきつく結い上げた小百合がいた。厚い化粧をして、大胆に背中が開いた黒いドレスを着た小百合が、ヴァイオリンの調律をしながら鋭い瞳で凛と佇立していた。
全員で庭師の写真の元に白バラを献花してから、皆が拍手し、演奏がはじまった。
ひとたびヴァイオリンの音色が響くと、庭園の空気が弦と弓の間に吸い込まれていき、わたしたち全員の感覚まで一つにつながっているように感じた。あんなに小さな楽器からよくこれほどの音が出るものだとあらためて感心する。自分の声が遠くから響いてくるような、不思議な感覚だった。ベートーヴェンの「ロマンス」、バッハの「シャコンヌ」、ボロディンやマスカーニの歌劇など、あたりが暗くなるまで小百合は弾き続けた。一度も休むことなく、弓毛が切れているのもかまわずに、全身で演奏するその姿は、小百合の生き方そのもののように力強くわたしたちを魅了した。
わたしは日暮れ前の海を見た。
はるか遠い異国、灰色の空の下に残る古城の城壁は、千年近くたって少しずつ崩れさり、小さな砂が風に舞う。そこから眺める海に、目の前の海がそっくりなのだ。戦うために建てられた城に、はるか昔の戦いの跡が残り、それから戦いは際限もなくくり返され、それが何のための戦いだったのか分からないまま時は過ぎ、城壁と海だけが絶えず風に吹かれている。どんなに壮絶な戦いであっても、時の流れにさらされているうちに、血は乾き、傷跡だけがあわやかに残る。
確実に時が経つことだけが、救いなのだ。
庭師は、毎日庭で薔薇を植えながら、背中から涙を流す。
演奏が終わると、あたりは最後の明るみの中で急に冷え込んできて、皆は小百合を囲みながら食堂へ移った。わたしは久々に自分の魂を取り戻したような気持ちに満たされながら、冷涼な空気を楽しむために庭園に残った。
あの人はちゃんと聴いてくれたかしら?
小百合はあなたの望んだ以上に立派な人間に成長しました。他人の悲しみを理解し、なにごとに対しても希望をもって毅然と立つ、うつくしい人間に。わたしは小百合を心から誇りに思います。
そして小百合を育てたあなたにあらためて敬意を抱きます。
老いた猫が桃色の鼻で庭師を捜し求めるように庭園をさまよっている。死を待つわたしもまた、夢遊病のように薔薇の香りの中をゆっくり歩いている。太陽が最後の輝きを波間に残して落ちようとしている。
「マリおばさん」
振り返ると、鼻の先にバラの棘をつけた小百合が笑っていた。
小百合はわたしをやさしく抱き寄せた。昔、泣きじゃくる小百合を抱きかかえていたわたしが、今は小さくなって小百合に守られるように抱かれている。
いよいよ、わたしにとって最期の夏が終わろうとしている。けれどもわたしの胸は希望に満ちている。この土を、草を、空を、薔薇の香りを愛するということ。愛したその存在にこれから同化していくということ。
わたしたちはいずれいなくなる。
悠久の時間のながれの中で、こうしてわずかな薔薇が香りを放ち、咲き揃うのを見届けながら。
小百合のみずみずしい肌に触れた。
「今日は、ほんとうに嬉しいわ。みんな演奏を聴いて生き返ったように表情が輝いていた。わたしたちにとって最高の贈り物よ。……気づいたと思うけど、亡くなった方も多いの。見ての通り、わたしも」
「ほんとうはね」
小百合はわたしの言葉を遮って弾んだ声で言った。わたしの手をとり、暖めるように包み込んだ。
「ほんとうは違うことを祖父に報告しにきたのよ。……わたし来年、結婚することになったの」
「まあ」
わたしの目に、枯れたはずの涙が浮かんできた。
短い一瞬のあいだに、わたしの中の庭師が小百合の花嫁姿を想像して泣き出したのだ。
小百合はカーテンを開けるように、並んだ薔薇の葉を端からゆっくりとゆすった。薔薇の葉は弾んだように、いっせいに首を振った。
「祖父が言ってたの。なぜ薔薇を植えるのか。人を愛し続けたいから植えるんだって。自分がこの世から消えても愛し続けたいから、自分の気持ちを薔薇に込めて植える。薔薇が咲くたびに、香りとともにその人に気持ちが伝わるはずだから、って」
小百合はなにかを想い出したように笑ってこうつけ加えた。
「でも、この話はマリおばさんには内緒だよ、だって」
最後の太陽が傾いて、薔薇からいっせいに輝きが放たれた。夕闇に燃える黄金色の薔薇、また薔薇が、しだいにぼやけて大きな光に集結していき、つめたい球体となってわたしの手の甲に落ちた。
「わたし、子供だったからよく分からなかったけど、人を好きになって初めて分かった。祖父はマリおばさんを心から愛してたのね。心の底から愛してたのよ」
わたしは薔薇の花弁にもう一度手を触れた。湿っていて、それは明らかにわたしたちと同じ生命があるものの柔らかさとみずみずしさに満ちていた。花弁をむしり、頬にあて、それから精一杯の力を爪にこめてにぎりつぶした。わたしにはその強い香りが長寿の秘薬のように思い、すべての生き物が「生きたい」と願う気持ちそのもののようにも思えた。
「そうだったのね。あの人が……」
わたしは心の重さを失ったように、悲哀の混じった笑いがこみ上げてくるのを抑えきれなかった。あの人は、あの空の向こうできっと、わたしたちを笑っているんじゃないかしら。子供のように、背中を向き合わせたまま、心の中でお互いを愛していた二人を。
緑の茂みの影から猫の尾がすらりと垂れていた。
手をのばすと、老いた猫は逃げる元気もないのか、わたしの膝の上へ力なく抱きかかえられた。その温かい体は以前より丸くふっくらとしていたが、活力に乏しく、口ひげが伸びてさながら老婆といった感じがでている。
わたしは涙声でやさしくった。
「あなた、ほんとは知ってたのね、意地悪」
老いた猫は、わたしを見つめてニアと鳴いた。
口ひげの上にある二つの目は人間そっくりのきれいな色をしている。
それから猫は今まで寂しくてたまらなかったというように、驚くほど強い力でわたしの腕の中にもぐりこんできた。