抹茶耕太 短編小説
全面ガラス張りの天井が続く、明るくて大きなガレリアの中には、百貨店や雑貨店や喫茶店などが立ちならんでいた。そこは港へ向かう人々の通り道にもなっていて、雨がふれば、雨宿りをする人々の憩いの場となっていた。
ガレリアの入り口付近に奇妙な形をした巨大なdindonというオブジェがあった。そのオブジェの天辺、どれだけ背の高い大人でも見上げなければならない高みから、小さなボールがレールをつたってゆっくりと転がり降りてくる。木琴や、鈴や、鐘を鳴らせながら、桃色や赤や緑の歯車があちらこちらで回る。それを囲む子供達も笑い声や奇声を発しながら、くるくると回る。鈴や鐘の音は長い間をおいて、いまにも止まってしまいそうなリズムで、しかし決して止まることなく鳴り続ける。
風の遮られた小さな広場のベンチには、本を広げた学生や、乳母車を押す女性たちがのんびりとした春の陽を浴びていた。クレープ店の隣はガラス張りのFMラジオスタジオがあり、広場を挟んだ向かいにコーヒーショップがあった。
マリはガレリアに響き渡るdindonの鐘の音を聞きながら、目の前に浮かぶ黄色いパテを凝視していた。
「マリちゃん、もう少しよ。だいぶよくなったわ」
店長が背中をつっつく。
「ううん、まだぜんぜんダメです」
マリはゆがんだ楕円形のパテを見て、どうしてもうまく生地を焼けない自分にだんだんいらだってきた。
「なんでうまくいかないんだろう」
「もうひといき。あとは手首ね、手首をもっとうまく使えばすぐできるわよ。ほら、こうして」
店長は、紙製の帽子の下から結った髪をのぞかせて、竹とんぼのような木べらでクレープの生地を丸い鉄板にのばしていく。正確な円をくりかえし描きながら焼いていくことにより、歯ごたえと弾力のあるおいしいパテができるのだ。
店長はちょうどよい頃合いを見て、ステンレス製のスパテルでパテを手際よくひきはがした。銀色の丸いトレイの上には均等な形のパテが幾枚も積み重ねらられている。
いつも頬をリンゴのように赤く染めている店長の焼くパテは、どれもが正確な円を描き、厚さが均等であり、キメが細かくてさながら芸術品のようだった。何十枚、何百枚焼いても、そのすべてが同じ大きさなのだった。
「はぁ」
まったく無駄のない店長の動作にマリはためいきをつく。
自分のパテと較べて眺めていると、同じ材料からできているとはとうてい思えない、と不意に諦めのようなおかしさがこみあげてくる。
「まだ一週間もたってないんだから、焦らないで」
一重の瞳で店長は気持ちよく笑ってみせる。
「マリちゃんなら、すぐにできるようになるわよ。素質があるもの」
マリは真剣な顔で、もう一度鉄板に生地を丁寧にのばしていく。
広場にいた小さな男の子が大きな声で「ママ」と叫んでいる。
大学に合格して、この港町に引っ越してきた次の日からマリはクレープを焼きはじめた。中学生の頃、初めて街でクレープを食べてから、ずっとクレープ店で働くことに憧れていたのだ。アルバイトを禁止されていた高校時代は何度も夢のなかでクレープを焼いた。店のまわりに漂う甘い香りと、小さな店構えが好きだった。袖がすぼんでいて、襟元に飾りのついた制服や、クレープを手にした恋人たちの笑顔、お互いのクレープを試しあう女の子たちの一瞬の表情が好きだった。マリはいま、憧れの中にいた。毎日が楽しくてしかたがなかった。上手にパテが焼けるようになるまでは大学が始まらなければいいのに、と本気で願っていたのだ。
「店長おつかれさま」
マリは頭を下げながら、クレープの匂いがする自分が誇らしかった。
「タイムカードがきたから、それ押してみて」
マリは生まれてはじめてタイムカードを押した。電子音とともに、印字される音が響いてカードが戻ってくる。
「はい、また明日ね、マリちゃん」
マリは新調の自転車に乗って港へ寄った。海に浮かぶ大きな貝殻のようなホテルが、夕陽にあたってオレンジ色に染まっている。空を見上げると、かもめの黒い影が重なりあいながら鳴き声をあげている。ディナーの準備を整えた遊覧船が汽笛を風になびかせて沖へと進んでいく。
「ようし」
なにげなく、そんなことをつぶやいて、手を力のかぎり強く握りしめてみる。
マリの人生はこれから始まろうとしていた。
受験のために今まで我慢してきたことを、この四月からいっせいにはじめようと決めていた。
東京から遠く離れたこの港町の大学を志望した時から、紙にひとつずつリストを書いて決めていたのだった。マリにとって、春のあたたかい光も、港に浮かぶ船も、図書館に並ぶ多くの本も、なにもかもが特別な輝きを放っているように見えた。自分は何にでもなれる気がした。いろんなことを試したかった。さやさやと風でこすれあう街路樹のあいだを自転車ですり抜けながら、マリはほんの少し先の未来に胸をふくらませて笑みを浮かべた。
働き始めて一週間がすぎた頃、マリのパテで包んだクレープがはじめて店頭に並んだ。
そのあいだ、あたりはいっそう春が盛んになって、買い物客の服も目に見えて色鮮やかになった。服だけでなく、誰もが軽やかにはずむように歩いているように見えた。
だんだんと仕事に慣れてくると、周囲をゆっくりと眺める余裕ができて、平日に訪れる客の数は思ったより少ないことに気づいた。東京からやってきたマリは、この街の人口密度の低さに、ある心地よさを伴った驚きを覚えるのだった。そしてますますこの街が好きになった。どこへ移動するにも、人混みの中をかきわけなければならなかった、今までの窮屈な暮らしは何だったのだろう。そんなことをつぶやきながら、店先の広場を眺めていると、コーヒーショップで働く黒いエプロンの少年と目があった。
二人同時に目をそらした。
「マリちゃん、あの子」
店長が急にコーヒーショップの少年を指さしたので、マリは指令を受けた兵隊のように直立した。
「はい?」
「マリちゃんが来る前、さっきケーキをもってきてくれたのよ。夜は製菓学校に通っているからって、実習で作ったケーキを持ってきてくれたの。去年からちょくちょく持ってきてくれて、すごくおいしいのよ。高校をやめて製菓学校へ行ってるんですって。えらいわね」
「ふうん」
冷蔵庫から出した白い正方形の箱から、側面がていねいにカットされたミルフィーユが出てきた。少年はくり色の頭を下げて、笑顔で客にコーヒーを手渡している。そして手で鼻をこするような仕草をしているのを見た時、
「ゴルトムント」
なんとなくそんな言葉が口から出た。
図書館で借りたヘッセの『知と愛』に出てくる主人公の名前だった。
ゴルトムントに似ている、と思ったのだった。おそらく修道院を飛び出した美少年ゴルトムントと、高校を飛び出した少年の姿が重なったのだろう。ミルフィーユを食べながら、マリは少年のことをひそかにゴルトムントと呼ぶことに決めた。
『知と愛』を読みながら、少年の姿を想像し、少年を見てはゴルトムントの物語を思い出した。読書が苦手だったマリはそのようにして毎夜少しずつ、ゆっくりとページをめくっていこうと思ったのだ。
桜が咲き始め、また寒い日が続いたり、暖かい日が続いた三月の末頃になると、マリはすっかりパテを焼くのが上達していた。あるよく晴れた午後。突然、丸く整った一枚のパテを焼くことができたのだ。するとそれから焼きあがるパテはつぎつぎときれいな形でマリの前に現れてくるのだった。卵とミックス粉と牛乳と自分が一体になったような不思議な感覚。初めて自転車に乗れるようになった気分だった。
毎日マリはパテを焼いた。卵を割り、牛乳と水を加え、ミックス粉を混ぜ、朝から大量のパテを焼いた。慣れてしまうと今までどのようにして失敗していたのかも分からなくなってしまうほどだった。
マリはふと鉄板を見つめながら、いつか自転車に乗ることがただの生活の手段になって、何の感動も覚えなくなるように、自分の憧れだったクレープに何の感動も覚えなくなるのかしら、と不安に思った。この短い数週間のあいだ、自分は一刻を追うごとに変わっていくようだった。受験勉強をしていた今までの間、自分の人生は完全に止まっていたも同然だったのだ。
「マリちゃん、たまには連休でもとってゆっくり休んだら? そんなに気を張ったら疲れちゃうわよ」
店長は冷たいウーロン茶をマリに手渡した。
「ううん、大丈夫です。学校が始まったらそんなに来れないし、それと、わたしここが好きなんです」
思わずコーヒーショップの少年に目をやった。くり色の髪が陽光に透けて赤く光っていた。その下のやさしい目はdindonの鐘の音へ導かれるように子供達へ注がれていた。ゴルトムントとはまだ一度も口をきいたことがない。
なぜ、何を信じて高校を飛び出したのだろう。ただ、それだけを聞いてみたかった。
小説『知と愛』のなかでは、修道院を飛び出した少年ゴルトムントは愛欲と放浪と病を重ね、あっというまに自分を追い越してシワを顔に刻んだ壮年へ成長していた。幼い頃、生き別れたナルチスとの想い出と、友情を胸に。
明るい午後のガレリアには流行りのポップスが流れている。
暖かい陽気の中で、マリはぽつんと立ったまま一人で店番をしていた。まじまじと広場を眺めながら、いよいよ明日から大学がはじまる、と考えていた。店長は本部へ出張していた。広場にはコーヒーの匂いとクレープの甘い香りとポップスが春の光の下で混じり合っていた。今日も子供たちは、時々鐘を鳴らすdindonに吸い込まれるように叫び声を上げ、喜んで走りまわっている。それを見て、思わず微笑を浮かべていると、突然ゴルトムントの顔が目の前にあった。間近で見ると少年というよりは、青年の兆しがはっきりと表情にあらわれていて、マリは思わず息をのんだ。
「自分、どっから来たん?」
ゴルトムントは気さくな笑みを浮かべてそう言った。
「え?」
マリは口を丸く開けて、しばらく目をパチパチとさせた。想像の中で完成され、ドイツ国中を苦難の放浪の旅にでているはずのゴルトムントと、目の前の漫才師のような口調があまりに合致せずに呆気にとられてしまったのだ。
そしてようやく口をむすんだと思うと、
「東京ちゃうん?」
とゴルトムントが早口で言った。
そのあどけない猫のような表情を見たとたん、こらえきれない笑いがこみあげてきて、マリはお腹を抱えて吹き出してしまった。まだ関西弁に慣れていないせいなのか、引っ越してきて、はじめて一人暮らしを始めてからずっと背負ってきた緊張がゆるんだのか、ゴルトムントの驚いた目を見ていると、ますます笑いがとまらなかった。
「ごめんなさい」
息をきらせながら、マリは真っ赤な顔で五本の指を口にあて、笑いをこらえようと眉を寄せて、涙で目をキラキラさせた。
「なんやねんな」
ゴルトムントは照れたように、広場のほうから注がれる視線を気にしていた。
しばらくしてマリは涙を拭いてしまうと、一度深呼吸をして、ようやくゴルトムントを直視して
「ほんとにごめんなさいね」と言った。
うららかな陽気の中、港へと続く明るいガレリアに、二人のささやきあうような笑い声が響いた。話をしてみると二人はよく気が合った。まるで旧友と再会したような懐かしささえ感じた。仕事が終わったあと、港に座り込みながら、夜が更けるまで二人で話し込んだ。
ゴルトムントは洋菓子を勉強しにこの古い港街へやってきたのだ、と言った。いつかは自分の店をもちたい。そして自分の店で、本当に人を幸せにするような、おいしい珈琲と洋菓子をつくるのが夢なんだ、と言った。情熱に満ちたゴルトムントとは対照的な夜風が、心地よい冷たさをマリの中へ残していく。
「この街、わたしほんとうに好きになったの。なぜか分からないけど、初めてここに来た時、とても心が落ち着いた。まるでここが本当の故郷みたいな気がして」
真っ赤なポートタワーの光が夜空にそびえ立っている。
「自分、なんでこっちに来たん?」
マリは大学に入るために、と言いかけてやめた。
ゴルトムントがそんな理由を訊ねたわけではないことが分かったからだ。
なぜ、わたしは大学へ行こうとしているのだろう? そんなことを疑ったことは一度もなかった。マリは今、生まれて初めて立つ特別な場所から、自分とまわりの風景を見下ろしている気がした。わたしはなぜ、この街に来たのだろう? なぜ? そんなことを考えていると、今までただの黒だと思っていた夜空が、数えきれない無数の色彩の連続となって、果てしなく、どこまでも遠くへ広がっているように見えた。
大学がはじまってからも、マリはクレープに夢中だった。店長が本部に提出する新商品のアイデアをマリに求めたので、マリはすっかりその気になって、様々な食材を持ち込んで試作品を作っては、ゴルトムントに食べてもらって感想をきいた。洋菓子の基礎を勉強していたゴルトムントにとっては、マリのひねりだす新商品のどれもが奇抜なものだった。ときにはとても口にできないようなものもあった。けれどもそれはほんのいたずらで、苦しそうに頬ばるゴルトムントの顔がおもしろくて、マリは一人で笑っているのだった。
その日は小粒の雨が降っていた。
雨の日はdindonの鈴や鐘の音の響きがすこしだけ変わる。広場を通り抜ける人々の足音も変わる。それらはいつものように風景のなかで響くのではなく、人々の心の中で響きあうのだ。傘から落ちた透明の水滴がそこら中にしたたっていた。ベンチにたたずむ人の数がめっきりと少なかった。
「コーヒーの風味が効いてて、いいでしょう?」
マリは得意げにゴルトムントの感想を待った。クレープの生地にコーヒーを混ぜてみると、店長にはとても評判で、すぐにでも本部へ報告すると言ってくれた。
「ええやん、うまいで。これなら大人でもよう食いよるんちゃう」
ゴルトムントの言葉をきいて、マリはすっかり自信をつけた。大学が始まってから店に来るのは土日が中心になり、忙しくてほとんどゴルトムントと会っていなかった。平日に出勤するのは、大学がはじまって以来、はじめてのことだった。
「話変わるけど、なんや最近、自分変わったなぁ。学校でなんかあったん?」
ゴルトムントにはマリが急に大人びて、自分に対してそっけないように思えた。
「そう。髪切ったからかな」
マリはたしかに自分の化粧や服装が変わっていくのを知っていた。母が東京から会いにきたら、自分の姿を見てきっと驚きのあまり叫び声をあげるだろう。けれどもなぜ化粧を変え、服装を変えているのか、自分でも分からなかった。おそらくきっかけは『知と愛』を読み終わってからなのだ。
ようやく完読した初めての本が強烈な感動をマリに与えた。読んでいるあいだ、自分の分身が放浪のなかで恋愛や別れや貧困をつぎつぎと体験していったために、読み終わってしまうと、自分の中に残っている放浪の感覚と、受験勉強を終えたばかりの生身の自分とのあいだ、大きな経験の隔たりができてしまった。無意識の中で、自分はその隔たりを埋めようと努力しているのかもしれない。
「あのな、あそこにおばはんおるやろ」
白髪をきれいになでつけた品のよい老婦人がベンチに座っていた。か細い背中をまっすぐに立てて、じっと動かず、ときおりガラスの天井を見上げた。
「さいきんな、ずっとあそこにおんねん。なんも食わんと朝からずっと。なんかな、このまま死んでまうような気がして、心配やねん」
「子供を見るのが好きなのかもよ」
「おれも最初はそう思てたんや。子供見るとき、ええ顔で笑うてる。いくつになっても女の人、子供好きやねんな、思て。けど変やねん。いっつも力がぬけたように、ぼうっとして」
老婦人は一人で座っていても、不思議と孤独を感じさせなかった。
マリは老婦人の気品ある動作に好感を覚えた。
彼女が歩く姿はパテを焼く店長のように、無駄がなかった。老婦人の目は、迷いのない、はるかな草原を見据えた野生の生き物のように、ガラスの向こうの空を見つめていた。けれども子供が近づいてくると、我に返ったように母のような表情で笑うのだった。
ゴールデンウィークを間近に控えた頃、季節は春の風と夏の陽射しがせめぎあうような日が続いた。
店内の鉄板の前に立つと少し汗ばむようになった。後輩も、一人入ってきた。パテがうまく焼けずに泣き出した高校生に、いずれ、うまく焼けるようになるから大丈夫よ、とマリはやさしく言った。入学前からずっと自分がやりたいと思っていたことも一つずつ減っていき、そのたびに一つずつ楽しみが減っていくようで妙な気持ちだった。
結局のところ、どれも実際にやってみてしまうと大したことがなかったのだ。これなら世界のすべてがベールで覆われていたほうがどれだけ魅力的だっただろう。
マリは学校を休みがちになった。繁華街の古い喫茶店で本を読んでいた。ときどき港の海際まで歩いて海を見た。波はギラギラと輝いて、透きとおった空がどこまでも青かった。自分の心がどんどん複雑になっていく。それが何か取り返しのつかない事のような気がして不安だった。
白髪の老婦人がベンチで倒れて救急車で運ばれた。救急隊員が声をかけると、老婦人は力なく涙を流していたという。それから老婦人は姿を見せなくなった。日がたつにつれて、マリは大学をやめてしまおうかしら、と考えるようになった。自分が変わったのではなくて、いままで抑えていた本来の自分がめきめきと成長しているように思えた。連休が終わったら、いったん東京へ帰ろうと決めていた。
「このあいだ倒れた女の人が来てるわよ」
店長はマリに声をかけた。老婦人はキリっとした表情でうつむいていた。
別人のように痩せ細っていて、誰の目にもはっきりと死の影が見てとれた。
ときどき、天井を見上げている。
休日のせいなのか、港でイベントでもやっているのか、ガレリアは大いに賑わっていた。クレープ店には長い行列ができ、店長とマリが休む間もなくパテを焼き、クレープを作り続けても一向に行列はなくならなかった。観光客も多かった。東京から来た客はどこか他人に無関心で、いい印象を受けなかった。マリはクレープを客に手渡しながら、自分がこの街を好きになった理由は、青々とした山や、そこから吹き下ろす風や、海や港の雰囲気のためではなく、そこを行き交う人々の表情に気品があり、のんびりと歩いているせいなのだと思った。
行列がぱたりと止んだ時、時計を見るとすでに夕方の四時になっていた。まだ老婦人はベンチに座っていた。
「おなかがペコペコね。マリちゃん、ごめんなさいね。先に食べてきて」
店長は額に汗を浮かべて、それでも少しも疲れを見せずに笑顔でそう言うと、また接客に戻った。
「うん、お先に休憩いただきます」
マリが店を出ようとすると、ゴルトムントがやってきた。
「どうしたの?」
マリは店の中にとどまった。
「今日はすごい人やな。ほんまおつかれさん。あのな、突然やけど」
ゴルトムントは口ごもって、いつになく神妙な顔つきでこちらを見ている。
「ここ、やめることにしてん。どうしても自家焙煎の店で勉強したくてな。そんでな、この前『カフェ・ザ・テラス』行きたいゆうてたやろ。今晩、仕事終わったあといっしょに行かへん?」
女性客が一人来て、店長が接客している。
「おれな、これからも、お前といっしょにいろいろ話したいんや。もし悩みがあるんやったらな、少しでも力になりたい」
ゴルトムントは一気にそう言ってしまうと、マリの様子をうかがった。
いつもよりも声が高かった。マリは初めてゴルトムントと言葉を交わした時のように目を丸くして、
「あ」
と言った。
白いハンドバッグがベンチの横に落ちている。
そばに背広姿の老人が立っていて、白髪の老婦人と向かい合っていた。老婦人は困ったような笑みと涙を一瞬浮かべたかと思うと、突然子供のように老人の胸に泣き崩れた。その声は雑踏にかき消され、二人は川の中央に突き出た小さな岩のように、人々の流れの中にいた。老人は彼女をやさしく抱き寄せた。
それから、二人は海岸通りのほうへ、歩き出した。
きっと、もうあの老婦人は戻ってこないのだろう。二人にどんな関係があり、過ぎ去ったどのような物語があったのかは分からない。けれども決して離さぬように手を取り合う二人の自然な歩き方が、マリに大きな何かを目覚めさせた。マリは二人の跡をいつまでも眺めていた。
「いややったら、ええねん」
老婦人の姿が完全に消えてしばらくたってから、ゴルトムントの顔を見て慌てて首をふった。
「あ、いえ、そうじゃないの。あの人が」
待ちくたびれたゴルトムントは意を決したようにマリに詰め寄った。
「おれな、お前のこと、ほんまに好きやねん。せやから最近、心配しとんねん、このままやったらあかんで。いっつもぼうっとして、覇気が感じられへん。ぜんぜん笑わんやんか。お前、笑うたら、ほんまにかわいいんやで」
マリは何の心の準備もしていなかった。
いろいろなことが突然にやってきて、あわただしく、うまく自分の気持ちを整理できなかった。
気がつくと、あっという間に店には行列ができている。
店長はレジを打ち、クレープを手渡す。パテがまもなく底をつきそうだった。マリは反射的にスパテルで鉄板についた焦げを勢いよく払った。
そしてゴルトムントに言った。
「ちょっとだけ、待ってて」
マリは、顔をあげて深く深呼吸をしてから、パテの生地を、鉄板の中央にきっちりレードル一杯分だけ落とした。
この数ヶ月間、いったい自分は何枚のパテを焼いてきたのだろう。
そのあいだに、あっという間に人生が始まって景色が変わりはじめた。世界は輝いたり、曇ったりした。マリは集中して鉄板をじっと見つめ、くるくると正確な円を描いて生地をのばしていく。黒い鉄板に浮かぶ満月のようなパテは、初めて上手に焼けた時のように、キメが細かくて美しかった。
店長が紙コップの在庫を取りに店の奥に行く途中、マリの肩をやさしく叩いた。試合にのぞむ選手を励ますように、ふり返ったマリに笑顔でウィンクした。
「あとは私一人で大丈夫よ。マリちゃん、それだけ焼いたら着替えて、行ってらっしゃい」
マリは大きくうなずいた。
パテは鉄板の上でしだいに色を変えていく。クリーム色から美しい黄色へと。そして今までの迷いがふっきれたように強い確信のようなものを感じるのだった。わたしはこれからもこの街で、数え切れないほどのパテを焼き続けていく。そして恋をして、大学を終え、どこかまた遠くの街へ移り、さまざまな出会いと別れを経験する。いつかはあの老婦人のように、白髪をきれいになでつけて、ベンチで誰かを待ち続ける日が来るかもしれない。でも、どれだけ時がたっても、わたしはこのたった一枚のパテのことを生涯忘れることはないだろう。