ハッピーバースデイ

わたしたちは誰もいない夏の海岸を散歩していた。

父の故郷である南の島。わたしが幼い頃、夏が来るたびに父と船にのってやってきた、小さな離島。
そこでは嵐がたてつづけにやってくると、大人たちはきゅうに険しい顔つきになった。
船の往来が途絶えるため、食料が極端に不足してしまうのだ。
大人達が寄り集まって口論をはじめるのを背中で聞きながら、木陰から隠れるように海を見ていると、祖母が半分におりたたんだような笑顔で手招きをし「シンパイないよ」と氷菓子をわたしの手に握らせてくれた。

「海も畑もすぐそこにあるのに何を心配することがあるのかねえ」
祖母は「おかしいねえ」とわたしの鼻といまにも触れそうなほど近づいて笑うと、父の子供時代の話をわたしに教えてあげようかと言う。毎日、毎日、海に潜ってばかりいて、友達からは魚のような奴だと不思議がられていた。海に潜っては魚たちの話を聞き、天候が変わるのを誰よりも先に言い当てることができた。漁師たちに頼りにされていた……。
そう語り続けた祖母の瞳のなかで、海辺に佇む父は少年のまま眩しい太陽を仰いでいる。

海、空、灌木、貝と小石、目にするものすべてが蒼いまどろみの中へ落ち続けていくような夏の午後だった。
トウキョウからはじめて島へやってきた少女と、はじめて孫の顔を見る老女は、木陰で過ぎ去ってゆく一刻を惜しむ恋人のように、夕闇に互いの顔が見えなくなるまで話し続けたのだった。


いつも笑顔だった祖母も、やさしかった父も、今はもういない。
わたしは母となり、娘のマリと足をそろえて歩いている。
なまあたたかい潮風が海岸にたちならんだアダンの硬い葉をゆらす。芝生のような草原のうえを走り、父の卒業とともに廃校となった肌色の校舎をすり抜けていく。教室の黒板には、子供たちのよせ書きが当時のまま残されているという。

ハイビスカスが、白い砂浜に濃い影を落としていた。一羽の黒アゲハが止まって蜜を吸っている。花と蝶がちょうど同じ大きさだったから、赤と黒、二匹の蝶が斜めにからみあって潮風に大きく揺れ、そのまま一つの塊となっていまにも地に落ちてしまいそうに見える。
マリは勢いよく腕を上げて鮮やかな原色の空を指さす。

「こんなにまっ青な空は初めて。それに子猫の手みたいな雲。ほんとうにステキなところだけど……こんなところにいたら、すぐに日にやけて真っ黒になってしまうわね、ママ」

マリは連日の暑さと旅の疲れからか、朝食を食べ終わるなり「はやくトウキョウにかえりたい」と言って、昨日から親切に道案内をしてくれた宿の主人をがっかりさせてしまった。南の島、と聞いて目を輝かせたマリは出発前から観光開発されたリゾート地を思い描いてきたのだろう。けれどもここは若者が一人残らず出て行った過疎の村だったから、巨大なホテルも、屋根付きのプールも、賑やかなショッピングモールもない。

髭をたくわえた宿の主人は自家製のアイスクリームをマリに手渡して、今日はいつもよりすこし涼しい風が吹いてるみたいだよ、と笑顔を見せた。マリは丁寧に礼を言った。それからわたしたちは午前中のあいだ泳ぎに行く約束で海岸へ歩いてきたのに、坂を下ったところで
「水着は部屋においてきたの」
と麦わら帽子を深くかぶりながら、突き放すようにつぶやいたのだった。

「そんなに心配しなくても、秋がきたらまた白くなるわよ。去年もそうだったでしょう」
「そうだといいな。みんなに笑われたくないもの。ああ、今頃みんなちゃんと勉強してるだろうな」

唇の下で帽子のあご紐をきつく結んだマリの横顔は、大股で歩きながらすっかりご機嫌ななめな様子だ。
祖母、父、わたし、マリ。
こんな勉強好きの子をみたら、父はどんな表情でどのようなことを言うのか、なんとなく想像できる。
わたしは麦わら帽子の上からそっと娘の頭に手をのせる。

遠い海面を巨きなクジラのようにのんびりと泳いでいく雲の影を目で追いかけながら、早足で歩くマリの後ろをついていく。
幼い頃、父とこの海岸を散歩していた時にもあんな雲の影を目で追っていたような気がした。
あの頃、自分がこれから先どんな大人になっていくのか不安だった。初めて口にしたドラゴンフルーツの酸っぱい香りと、小さな希望のいりまじった複雑な気持ちで、うまく自分の考えを整理できずに、つい父に当たってしまったのだった。

そんな時、父はわたしの頭に大きな手をおいて、この島をかたちづくった珊瑚の話をしてくれた。
星が生まれて、地球が生まれて、海が生まれて、珊瑚が生まれて……。星を見つめて、ながいながいゆったりとした時間のながれを眺めてごらん。それに較べたら人間の悩みなんて、ほんの小さなことじゃないか……。

わたしはマリの小さな手を握りしめて言う。
「マリ、この島はね、珊瑚でできてるのよ」
「サンゴ?」
「そう、マリが歩いているこの地面の下はぜんぶ珊瑚なのよ。珊瑚の島」

娘は背筋を張ったままくるりと回転して島を一望する。
広大な海原にぽつんと浮かぶ小さな島が、穏やかな小波の音にそっと耳を傾け続けている。

色とりどりの珊瑚も死んだとたんに白く乾いて骨のように硬くなる、ほんとうに人間そっくりにね、と父は言った。珊瑚の死骸が少しずつ積み重なって隆起し、ながいながい時間をかけて一つの島をつくる。そこに土が積もり、草が芽生え、真っ赤な花が咲く。その上をいまこうして歩いている。
「マリのおじいちゃんが子供の頃は、この島のまわりはもっとたくさんの珊瑚礁でいっぱいだったそうよ。海に潜ると、耳が痛いくらいピチピチピチって珊瑚の呼吸がきこえて、それを『珊瑚の歌』って呼んでたんですって。『珊瑚の歌』を聞くために毎日潜り続けてきたけど、ある時からどんなに深く潜っても聞くことができなくなったって悲しんでたのよ」
「おじいちゃんって、あのこわい写真の人?」
マリはふだんから寝室に飾ってある父の写真をこわがっていた。
古い木枠の写真の中で、白いタオルを首から下げた旅行中の父は、両手から鳥を放つ瞬間のまま目を細めて晴れ渡った空を見上げている。
「そう、でも本当にやさしい人よ。おじいちゃんはいつも珊瑚のように生きることができたらいいね、ってママに教えてくれたの。自分がいなくなってからも、そこから草が芽生え、花が開くような人生があったらいいなって」
マリは首をかしげて、青白い顔でうつむいた。
「ふうん」
二つの大きな瞳の下にうっすらと半月の影が浮かぶ。
波音がわたしの耳から遠ざかる。

突然マリは「ああ、もう暑くて我慢できない」と気の抜けた高い声で言い放って、服を着たまま海の中へ進んでいった。去年までのように下着で泳ぐにはもう恥ずかしい年頃なのだというように、地球の表面を覆う透明の液体に頭から潜りこんだ。

白い綿のスカートが、照りつける太陽の下で巨大なクラゲのように右へ左へとゆらゆら漂っている。その輝くような白は、まるではじめから海の上に存在していたかのようだ。マリは、地球に浮かびながら遠くを見上げている。一瞬の表情が写真の中の父と似ている。

やさしさに色があったら、きっとそれは晴れた日の海の色。
祖母は、覚えたばかりの日本語で話すようにゆっくりと丁寧に、やさしさだけが人と人をつなぐ確かなことだと何度も繰り返した。海がほんとうに輝いて見えたら、それはあなたがやさしい瞳をしているから。風がほんとうにあなたに尊い言葉をなげかけていたら、それはあなたの心が澄んでいるから。

マリが海から上がってきた。
わたしたちは二人並んで、砂と海と空しかないまぼろしのような風景の中を宿へと帰っていく。
ちょうど正午を過ぎた頃だと思う。
マリはポタポタと透明の水滴を乾いた地面に落としながら、晴れた眉をひろびろと張って帽子をとった。
「泳いだら気持ちがすっきりした。ママ、遠くからこわい顔でこっちを見てたよ。こんなにいい天気なのに」
マリのあまりの態度の変わり方に、あきれながらもおかしくなってくる。
「あら、ごめんなさい。ずっと昔のことを思い出してたのよ。今日はおじいちゃんの誕生日だから」
マリは何かを思いついたように目を丸くした。
「じゃあ、今夜はお誕生日会?」
「そうね。ケーキを用意してもらいましょ」
「やった」
マリは太陽の強い光に眩しそうな顔をした。
「わたしね、はやく大人になってたくさんの思い出をもつのが夢なの。思い出っていつでも美しいんだもの。大人になったらいつでも好きな時に戻って楽しい時間を過ごせるでしょ?」
「それは大人になってからのお楽しみね」
足元の砂粒が夏空の下で一面白く輝いていた。
じっと砂粒を見つめてみると、それはかつて呼吸をしていたであろう無数の孔があいた珊瑚のかけらや、星型の砂粒、ほんの小さな貝殻、化石などがぎっしりと寄り集まっていた。それらのほとんどが、かつてこの海で生きていたものたちだった。

「またいつかここに来たいな、ママ」
わたしは静かに息を吸った。
「そうね、ここはわたしたちの故郷ですからね。もうすっかり気分は晴れたかしら?」
「まあね」
マリはトウキョウの暮らしがすっかり洗い流された表情と身のこなしで、島で生まれ育った少女のように素足のまま歩いている。

マリは砂のついた長い睫をとがらせてもう一度、ママ、と言った。
「さっき海に浮かんでいる時ね」
何かを思い出すように静かに口を開いた。
「わたし、『珊瑚の歌』が聞こえたんだ」