ぼくが詩人になった日

高速をひたすら北へとのぼっていく途中のことだった。

暗く長いトンネルから抜けると、眩しさがいつまでもひかずに視界を遮ぎった。
頭から水に浸ったように何も聞こえなくなり、
だんだん安らかな気持ちになっていった。
そして大爆音が二度ひびいたと思ったら、 地平線まで続く草原に挟まれた一本道を歩いていた。

草と空だけがあった。
ここがどこなのか、自分がどこに向かっているのか、 ぼくにははっきりとそれが分かっている気がした。
薄い霧の中を歩き、寒さのためにブルブルふるえながらポケットに手をいれると何かにぶつかった。

『ライナー・マリア・リルケの詩集』

あるいは、この一瞬の間に車で北に向かう夢を見ていたのかもしれない。
なにしろぼくは十八歳になったばかりなのだし、 こうしてたった今も、人生のなかでもっとも大事な所を目指して、二年も前から歩き続けているのだから。

バルナック型ライカを首から下げた老人に出会ったのは襟裳岬だった。
あたりは一刻ごとにすみれ色に染められ、やがて日が暮れようとしていた。
高台にある灯台から写真を撮ろうと登っていったら、ぼくの首からぶら下がっている型と同じカメラを太陽に向けている老人がいた。

ぼくはしばらく強風に髪を逆立てながら、
何枚も何枚も太陽に向かってシャッターをきる動きを眺めていた。
それから近づいて声をかけ、お互いの旅の理由を尋ねあった。
高校はいま休みだけれど、このまま戻るつもりはない。
と言うと、それを聞いた老人は何度かうなずいた。

「後悔することになるかもしれんよ。十年後のこと、子供をもった時のことを考えてみなさい。君はまだ若すぎるのだから」

老人はタバコをくわえてカメラをこちらに向けた。よく磨かれて空のように透き通ったカメラのレンズ。
そこに映っているゆがんだ自分の顔を見つめながら、一字ずつ言葉を確かめるようにつぶやいた。

「十年後に後悔したくないから、ぼくは学校には戻らないと決めたんです」

*

それからぼくは旅人になった。
今日が何曜日なのか、自分が何歳なのか、明日は何時に起きて何をしなければならないのか、そんなことは全て無意味になった。自分の名前さえ時々思い出せないような気がしたけれど、それもあまり意味のないものだったのだろう。

ぼくは道内の図書館を全てまわろうと心に決めた。
手当たりしだいに本を読み、その中から一冊だけ選んでポケットに入れる、という行為がとても大切に思えたのだ。

くる日もくる日も本を読んだ。そして金が尽きると働いた。
農家、温泉旅館、漁船、工場、そこであった人たちになぜ本を読まないのかと聞くと彼等は口をそろえてこう言った。

「だって他にしなければならないことがたくさんあるだろう。たとえばほら……あの娘をどうやって口説くか、とかさ」

そして二年があっという間に過ぎた。
図書館が変わるたびにポケットの中の本も変わった。小説より哲学、そしてそれよりも詩のほうが、一冊だけを選ぶなら適していると思った。ぼくはカメラをかまえて一本道をのぞいてみた。

*

ポケットには一冊の詩集が残っている。
最後の図書館から出たぼくは親や友だちを見失った子キツネのように、あたりを幾度も見まわした。

ぼくはどこへ行き何をしようとしているのか。ぼんやりと風に波打つ草原を眺めていたら、
急にこの詩集が頼りなく思えてきて、この二十世紀最大のチェコ生まれの詩人を草の中へ投げ捨ててしまった。

「ぼくは何も持っていない」

何かをあきらめたようにそう言ってため息をついて空を見上げた。
草や木のようにぼくは何ももたないし、何も望まない。
つぶやいてみると、それを無性に紙に書き残したくなった。
食料を手放しても紙とペンを手放したくない、そんなことを考えるなんて病気にちがいない、そう思いながら次から次へと湧いてくる言葉を夢中で書き留めていた。

*

老人はシャッターをきると何度もうなずいてから、
息子を見るようなやさしい目でぼくを見つめ、タバコを捨てた。
「しかし君はたった一瞬を大切にするあまり、これからの一生を失うことになるかもしれんのだよ。君はまだまだこれからだろう」

つめたい風が髪をなぶった。
湿った森の匂いにぞくぞくしながら、潮が騒いでいるのを聞いた。
ぼくは空の色調がむらさきから鉄くずが燃えているような赤へと微妙に変わっていくのを見ていた。

「一生が一瞬のように思えたから、ぼくは旅に出たんです」