抹茶耕太 短編小説
一面、みずみずしい緑のツタが大人の背丈ほどもある鉄柵を覆っていた。
初めてここを通った者がこれを見たら、草むらに生えたこの大きな緑の立方体を不思議に思うに違いない、と私は笑った。
しかし見知らぬ者がこの辺境の村を訪れることなど、果たして何度あっただろうか。
私は野生のツタを手でかきわけながら、ながい時間、古い記憶を頼りに鍵穴を探していた。
ようやく見つけて鍵を差し込むと錆び付いた音をたてて門が開いた。
汗ばんだ身体が五月の空を涼しく感じる。
鉄柵の中はツタや枯葉でおおわれ、まるで原生林のようだった。この小さな公園ほどの正方形だけが、太古の時代から切り取られて、不意に出現したむき出しの自然の世界を思わせた。目の前に広がっているのは、陽光に向かってのびきったままの乾いた草花と、朽ちかけた木組みのベンチ、それだけだ。
私はしばらくベンチに腰掛け、見たこともない小さな昆虫が革靴の先で立ち往生しているのを眺めていた。やがてその虫は黒い靴を避けるように、草の中へ消えていった。真新しい野球ボールが草の間から顔を出している。おそらく村の子供達が遊んでいるうちにここへ投げ入れてしまったのだろう。
彼女がこの村に帰ってきた、と旧友たちが噂しているのを聞いた。
もうあれから長い年月が過ぎた。子供時代の思い出も、今ではそれぞれ別の形に変わってしまったことだろう。お互いが別々の人間同士であることも知らないまま、みんなで一つの世界を走りまわっていた子供時代。あらゆるものの肌と肌が触れ合い、小さな毛穴を通じて世界が身体のすみずみにまで満ちていた子供時代。そしてある日、突然終わりをつげる子供時代。
私は時々、あの頃の日々は本当に過去に存在していたのだろうか、と疑わずにはいられないことがある。あれは自分がこの身体で経験した実際の風景なのか、それとも記憶が欠けはじめたその部分から、少しずつ無意識の中で自分がつけくわえていった空想の物語なのか。どれだけ記憶をたどっても、その区別がつかなくなることがあるのだ……。
空は灰色に曇って、初夏の匂いが足音をたてて私の胸に迫っていた。
とおくで学校の鐘がなり、しばらくして牛が鳴く。
雲の際からは光が漏れて、海から顔を出してこちらに手を振る海女の子の顔を照らし続けていた。
「いっぱいとれたぁ」
きらめく波間にただよう笑顔の少女に私は重大な事実を伝えなければならなかった。私は、はよあがってこんねえ、と言いその娘はもうすこし、と叫んで海の中へ潜った。もう起きてしまったことだ、急いでも仕方がないと思い、しばらく岩壁に群生している花々を眺める。
両親のないあの子にとって唯一の家族であった、唄うたいの祖母が亡くなった。私は自分の両親がいなくなってしまうことを想像しただけで、膝の力が抜けそうになり、胸を手でおさえた。何度も呼ぼうと試みたが、彼女が祖母を心から慕っていたことを知っていたから、なかなか祖母の死を言い出せなかった。それとも不幸を知るまでのたった一瞬だけでも、自由にこの海を泳がせてあげたい、とどこかで思っていたのかもしれない。
彼女はなかなか浮き上がってこない。
足下へ押し寄せるこの冷たい波を通じて私の胸の震えを聞き、自分の境遇を感じ取って波の下で眠るように悲しんでいるのではないか……とその時、私は不安になった。そうでなくても慌てた私を見て、何事かが起きたことを分かっているのかもしれない。
長い一瞬にそんなことを考えた。
すると、「ひゃあ」とかん高い声をあたりに響かせ、突然海上に現われた彼女は、
「ウミヘビのおった」
と叫んで魚のようにこっちに泳いでくる。
その日に灼けた笑顔、その稚魚のような存在の透明さが、彼女の無邪気さの最後の表情だった。
浜へあがった彼女に走り寄った私は、彼女をじっと見つめたまま大声でばあちゃんが死んだ、と叫んだ。犬が吠えたような大きな声があたりに響いた。すると彼女は動物的な本能がそうさせたように、突然殺意をもったような鋭い目で私をつきとばした。尻餅をついた私の視界に海が広がった。
彼女が走り去っていくあいだ、私はなにが起きたのか分からないまま、呆然と光り輝く海を眺めていた。しかし取り返しのつかない何かが起きたのだ。
胸のあたりが彼女の残した水滴で濡れていた。そのにじんだいくつかの水滴を手でさわろうとして、手から濃い血が流れているのに気づいた。
手のひらに骨のような貝の破片が深く刺さっている。貝をむりやり取り除くと傷が広がって激しい痛みがはしった。傷口を癒したがるように砂が血にまといついてくる。
しばらくそのまま座りこんでいたが、立ちあがって、海水で傷口を洗うと、覚悟していたよりも激しい痛みが背中まではしり、私はその生々しい感覚の最中に、自分が理由もなくおびえているものの正体を見た気がした。
私は悲しんでいなかった。彼女の境遇を悲しんではいたが、彼女の祖母の死をまったく悲しんでいなかった。自分の胸の内を確かめるように、そう口に出してみた。頭の上に広がる空がやけに高く見える。身体の中身がえぐりとられて空っぽになった気分だった。ついさっきまで肌と交感していた空も海も、空気さえも自分をよけて遠ざかりはじめるのをはっきりと感じたのだった。
私は朽ちかけた木組みのベンチに身体を縮めて横たわり、草の吐いた息を味わうように空気をすいこんだ。
ここに昔すんでいた。家が取り壊される時、まわりを囲む鉄柵だけはそのままに残したい、という幼い私の願いが今もこうして生き続けている。時がたって家は土になり、鉄柵はツタに覆われた。
視線が幾千も飛び交う毎日、電線が見慣れたように幾千も空を這う毎日を思うと、草が鉄を食い、時が当たり前のように原初に向かって進もうとするこの園が、全く隔てられた星のもとに存在している気がしてくる。誰にも見られずに自分が眠っているという事実がそれじたい奇跡のように思えてくる。
私は何年かに一度、仕事の合間を見つけては、救いをもとめるように何時間も飛行機と列車を乗り継いでここへ来る。そしてこの奇妙な四角形の空間で、慌ただしい都会の生活と、宇宙を巡り続ける地球の時間とのずれを修正しなければ、毎日を生きていく意志を持ち続けることができないのだ。
「なんばそげん甘ったれたことゆっとっとね。みんな、なんで十二にもなっとって将来ん夢のいっこもなかと?」
その数日後の夜、海岸で火を囲んだ私達は、眠さに耐えることが彼女への励ましなのだと決めたように、彼女の唄を聞き、話にうなづき、彼女が泣き出さずに眠りにつくまで笑いを絶やさなかった。彼女は酔ったように話し、うたい続けた。
「アタシはずうっとばあちゃんのごと唄ばうたう。あんたはどがん?」
「まだ、わからんと」
そう小さく答えた私の顔だけが火をうけて火照っていた。
ほかの者は遊んできた後なので面白いようにぱたり、ぱたりと眠りに落ちてゆく。
それでも不思議と眠気を感じなかった。彼女と同じように、私の中でも、後戻りのきかない時計の針が、音をたてて刻みはじめていた。
話していないと自分が崩れ落ちてしまうとでもいうように彼女は言葉を続けた。
「あんたたち、そがんしとってよかと?死んだら終わっとよ。一回しかなかとに。死んだらばあちゃんのごと何ものこらんとに。なんも……」
近くで虫が鳴いていた。夕方からくりかえしその音を聞き続けていたから、数匹の虫の表情や、虫同士のやりとりまで目に浮かんだ。
私は彼女に何を言えばいいのか分からないまま、何も言えずに口をつぐんでいた。何を言っても嘘になる気がした。巨大な暗闇から、波の音だけがたえ間なくおしよせてくる。さわさわと波が砕ける音にまじって、彼女が鼻をすする声が響いた。
「死んでも、おわらんかもしれん。ばあちゃん、いまもどっかで見よんしゃるかもしれんばい」
私は暗闇に立ち向かうように、とっさにそう口に出してみた。
声に出してみると、本当にそうであるかもしれない確かな気が手足に満ちた。
「死んでもおわらんかもしれん」
彼女はそれを聞くと、返事のかわりに一つしゃっくりをした。
「悲しかことなか」
もう一度肩をふるわせた。
「ばあちゃんもいっつもゆっとったとさね。大きなったら自分がどんだけちっこいか分かるって。木ぃとか花がどんくらい長生きしよるかって。木ぃとか花が土から生えてきたごと、うちもぽっこり生えて、いつかねむるごと散る。ぜんぶ唄にあるけん何も悲しかことなかよって。何も悲しかことなか」
彼女はそういって小石を遠くへ投げる。ビー玉のような大粒の涙が肩に落ちた。
彼女は暗闇へ顔をそむけた。それから砂浜に額をこすりつけ、そのまま大きく声をあげた。骨の芯からしぼりだしたような声だった。彼女はとりつかれたように泣いた。意外なほど小さなこぶしに力を込め、握りしめたその砂のように身体を白くさらさらにしてしまいたい、というように、声が枯れるまで泣き続けた。
異国の唄で眼がさめたと思うと、しだいにそれがこの村の古い唄だと分かってきた。
よく眠ったのか、そんなに眠らなかったのか、まだ日は暮れきっていなかった。誰かが波に向かってうたい続けている。
何代も唄い継がれてきた物語のような唄。土にも草にも還ることができずに、祖母から母へ、母から娘へ、死んでは生まれ、死んでは生まれる果てしない命が、めぐり続けるように波の上を漂い続けてきた唄。
あの幾日か後、彼女は遠くの親戚にひきとられてこの村を去った。それ以来、彼女から一度も連絡が来ることはなかった。
もう何十年も昔の初夏のことだ。あの時、海岸に集まった友人達に尋ねても、誰一人として何をしていたのか覚えていなかった。あいまいな記憶の中で、唯一私が忘れられないのは、泣きやんだ彼女が、海のように落ち着いた表情で言った言葉だ。
身体が澄みきって、月明かりに目がどこまでも透明に見えたのを覚えている。
うっすらと明るみはじめた空の下で、涙に濡れた唇を結んで、こう言ったのだった。
「ばあちゃんもこの花も、おなじいっこの命と思ったら気が楽けど。けどさ、一回きりの命って思わんば、唄うたっても波に響かん。もう終わりと思うけん、あげん美しか声が出っとさ」
風がふき小石がカランと鉄柵にあたる。
ここから海は見えなかったが、強い風が吹くたびに波が荒立っているのが目に浮かんだ。唄はもう聞こえなかった。
数十年とはいったい、何をはかるための尺度なのだろうか、と私は一人ごちた。あれ以来、あの時の少女よりも強く美しい人間を、海のように澄んだ表情を、一度も見なかった。
私はあの頃から何一つ変わっていないのかもしれない。私の身体も、この世界も、本当は何一つ変わっていないのかもしれない。成長などという言葉があまりにもしらじらしく思えた。どれだけ人の外見が変わり、どれだけ街の風景が変わっても、結局のところ大した違いなどあるはずがないのだ。
園を出て、いまではやけに低く見える丘陵を眺めながら、車のタイヤの跡のついた小径を目で追い、しばらく立ちつくした。ながいあいだ、そのまま立っていた。地虫が鳴きはじめた。葉と葉がこすれあう音が響き、その音が止むたびに広大な静寂があたりを覆う。その静けさに、自分が戻らなければならない生活が胸をよぎった。
風が冷たくなって夜が訪れようとしている。私は海岸を背にして歩きはじめた。小径の砂利を踏む自分の足音が、足の裏からそのまま夜気にすいとられていく気がした。昔はこの小径も、車のタイヤが通る二本の線だけが土のまま残り、あとはどこまでも根の堅い雑草が続いていた。海からの帰りに、よく裸足のまま直線に延びる草の上を平均台のようにして歩いたものだった。子供たちがそれぞれの両腕を鳥の翼のように広げながら。
突然カンカンと鉄を強くたたく音が背後で鳴り、驚いた私は足をからませて転びそうになった。
笑い声がした。振り返ると、見知らぬ村の子供たちが、歓声をあげながら海のほうへ駆けていく姿が見えた。