抹茶耕太 短編小説
全国的に爽やかな秋晴れの日になるでしょう。
気象予報通り外の天気がよかったので、仕事を午前で止して、国営公園に寄ってみた。
平日の午後ではあったが多くの人々がほどよい間隔を保って芝生に佇んでいた。手を取り合って散歩する老夫婦や、転がるボールを追いかけてゆく子供、犬の散歩をする背筋の伸びた女の子。凧をあげる数人の老人たち。
凧は風に揺れながら、はるかな高みからじっと街を見下ろしている。芝生を囲む木々の葉は黄色く染まり、その枝からは赤いイイギリの実が、写実派の静物画のように淡い光を受けてじっとぶらさがっていた。
冬の光景を連想させるほどつめたかった朝の風も、秋晴れの陽のなかで昼過ぎには心地よく感じるほど暖められていた。空は高く、峠の奥で秘かに忘れられた湖水のように、じっと澄みわたっていた。ひとすじの雲もなく、見つめていると眼球についた埃が小さなアメンボになって空を泳ぎだす。たしか、こんな日が昔あったっけ、と思う。
空を見上げると、やがて頭上の大きな空虚の中で誰かが話し合う声が聞こえてくる。水の中をヴァイオリンの音が遅いテンポで重なりあいながら伝わっていく。
わたしたちは青白い光の船にのって
この星へやってきた
遠い昔
はるか遠い日に
これからずっと先
でもいつか確実にやってくる日に
わたしたちは、みんなで青白い光の船にのって
いっせいに旅に出る
とても懐かしい響きだ。
深い海の底から、無数の小さな気泡とともに立ち昇ってくるささやき声。
リュウグウノツカイが巨大な身体を揺らしてのっそりと回遊するよりもはるかに深い海の底の暗闇の中を、白く透き通った小さな甲殻類の家族が、細い足をそろえて行進しているのだ。
ゆっくりと、生命の気配がない静かな深海の世界を、わずかな歩幅で移動していく。極端に変化の少ない環境で、何年ものあいだ、じっと上から降りてくるかすかな有機物の気配だけを待ち続ける透明な家族。毎日、同じ場所でひっそりと息を潜める彼らは、きっと私たちが想像もできないようなタイミングで笑い合い、地上には存在しない物語を夢みているのだろう。
深海では絶滅した恐竜を思わせるとっぴもない色形をしたものがうごめいている。海底に堆積した有機物をなめるように吸うくねくねと動く生き物、触手を水中花火のよう鮮やかに広げるもの、その触手にからみとられて消えていく微生物、大きなアゴから口ヒゲを垂らして回遊する魚。
それでも決して賑やかなわけではあるまい。
彼らが去ってしまう時、地球を覆う巨大な水圧に包まれながら、甲殻類の家族は暗闇に取り残される。地上で時計の長針が一周するあいだ、ここでは何事の変化もない。暗く冷たい空間で、何をするでもない、単調な言葉のやりとりばかりを交わしていく。
幼少の頃、ぜんそくの発作が訪れると、息苦しさのあまり眠れずに朝まで夜の街を眺めていた。
酸素が不足してだるくなった四肢をぐったりと壁にもたれかけ、団地の最上階のうす汚れた窓枠から、灯りの落ちた観覧車を見つめながら、いつも深海の世界を夢見ていた。湿った夜風が鼻先をかすめ、おだやかな愉悦の波にゆられて夢想に浸るその時間が、息を吸うことすら満足にできない私の唯一の楽しみだった。子供達の期待と緊張が頂点に達する運動会の日も、自分の家から外の木を眺めていた。学校に入りきらないほどの自転車の列が陽光を照り返し、ピストル音が響く。夜になっても行進曲や歓声の賑やかな余韻が忘れられずに、いつまでも窓枠にアゴをのせていた。
夜の街は大小の様々な外灯の粒が星雲のように瞬いた。
その小さな光の中で、多くの人間が意識を失っていることが不思議でならなかった。みんな同時に目を閉じて、赤ん坊のように寝ているのだ、と思うと、それを見ている小さな自分の意識がひどく現実から乖離してしまった幽霊のような気になる。そしてそんな自分を慰めるように、自分の意識は海の底へと向かっていく。
透明な甲殻類の家族が海底を針のような足で一歩ずつ進んでいる。声一つたてない彼らは時々は止まっているようにさえ見える。けれども、意志は確かに通じ合っていて、親は子を意識し、子は親に声をかけてもらいたくて、時どきつまづいたフリをしながら、ぷくぷくと気泡を空に飛ばす。家族はじっと、暗闇と静寂の中をたちのぼっていく気泡を見上げている。
国営公園では誰もが、芝生の上で平穏な時間を過ごし、おだやかな表情で香草の香りの混じった涼しい風に小さな歓声をあげていた。
もしこれから先、何かのきっかけで凄惨な時代が幾世紀か続き、ついに過去へ立ち戻る希望も失われる時がきたとしたら、目の前に広がる光景は、前時代の類まれな平和の象徴として、憧憬のまなざしが向けられる映像に最もふさわしいだろう、と思う。
その映像に写っている私の姿を見て、人々は口をそろえて「人類の青春時代」と半ば恨むような眼でつぶやいているのかもしれない。あの頃は、まだ何の心配もなく外気を自らの口を開けて吸うこともできたし、本物の芝生の上に寝転がり、青空を仰ぎ見ることもできた。様々な種類の虫たちが陽光の下で楽しそうに舞っていた、と。
まるで私たちが古代ギリシャの人間を懐かしんで憧憬するのと同じ気持ちで、今日の平和をふりかえっているだろう。
だが映像の中で芝生の上に佇む、実際の私の心は美しいほど空虚だ。
この空のようにただどこまでも透明なだけだ。
アクロポリスの丘の上に立つ、古代ギリシャ人の視線がきっと空虚であったように……。
私は芝生の上に寝転んで焼きたての胡桃パンを片手に、珈琲を口に含む。
芝生の匂いが立ちのぼる。
有名なパン屋の前を帰宅中いつも通るのだが、主婦の行列が絶えずなかなか店に入ることができなかった。今日は難なく買うことができたのだ。店番の女性は通りから覗いた時よりもずっと年をとっていた。オーブンで程よく焼かれた胡桃の香りを楽しみながら、飽きもせずに空を眺めて過ごす。頭上のほうから、時々落ちてくる有機物をひたすら待つ透明な生き物のように。
ただひたすらに空を見上げる。
わたしたちは青白い光の船にのって
この星へやってきた
遠い昔
はるか遠い日に
これからずっと先
でもいつか確実にやってくる日に
わたしたちは、みんなで青白い光の船にのって
いっせいに旅に出る
時々、ふとした時に幼少の頃を思い出す。
息ひとつするにも、顔をしかめてうなだれていた子供の顔が目に浮かぶ。地鳴りのようなひどい雨が降った後や、夏の終わりを風が告げてくれる涼しい日に。もしくは小さな虫が空の高みから寄ってきて、私のまわりを旋回し、何かを伝えようとしているように感じた日に。私が必死に話しかけていたあの透明な甲殻類たちは何だったのだろうか、と考えを寄せてみると、この頃になってようやく霧が晴れるように少しずつ姿がはっきりと現れてきた。
透き通った小さな甲殻類がやがて人間のような面影を現し、食卓に並んだ見慣れた顔立ちへと変わっていく。父や母や、弟たち。今日のように特別に晴れた秋の日はなおさら、鮮明な表情が甦ってくる。
それは、今ははなればなれになった家族の姿。
萎えた花の香りの中を、一列に行進している五つの影。
些細なことで子供たちは喧嘩を始め、母が叫ぶように叱り、父はあきれて煙草に火をつける。
煙草の煙が嫌いな母はさらに怒りだし、子供たちが泣きはじめてしまう。いつもの騒々しい一日。
家族を囲むように百万本のコスモスが遠くまで続いていて、今日のように空は一つの傷もない秋晴れの日だった。
まわりには誰もいなかった。
そこで父が用意していた洋菓子を取り出すと、子供たちはあっという間に静かになり、奪い合うように食べ始める。
泣き声が消え、コスモス畑の真ん中で、すべての音が止んだ。
父は喜びを隠せないように照れた表情で、洋菓子に顔をうずめる子供たちの頭をなでた。
泣き終わって爽やかな顔の子供たちは、すっかり数秒前の記憶を失ってしまったように、今度はどこからともなく湧いてくる歓喜を抑えきれずに駆け出して、すぐにコスモスの陰に隠れて見えなくなってしまった。
風がひとすじやってくると、コスモスの艶めいた甘い香りが漂ってくる。
さわさわとコスモスの葉が音をたててこすれあって、父と母も満足そうにじっと空を見上げて、単調な言葉を交わした。
それから二人、雪が重なっていく時のような幽かな声で笑い合った。